Twitterを始めた

いままでろくにブログを書かなかったのだから、ツイッターになって何が変わることがあるかと思っていたが、気持ちの変化が起きている。140文字という制限のため、何か内容のあるものを書かなければという気負いを持たなくてすむ。

他人のつぶやきは、内容のあるものの方が確かにおもしろい。だが多くのつぶやきはむしろ、読み物として提供されているのではなく、いまこんなことしてる、というだけ。表しているのは内容ではなく、気配なのだ。人の気配。ネット上でなかなか感じることのできない、ライブ感である。

人間いつも人の役に立つような発信を続けているわけではない。人の役に立たない時間だってたくさんあるのが当たり前だ。そんな姿を、そのままそこに出している。読ませようとか、伝えようとか、押しつけがましい努力はそこにない。だからやりやすい。広い部屋の向こう側で「何かやってるな」、くらいの存在感だ。

無理に近づこうとせず、放っておいてくれながら、気づいてくれている。その緩い認知感覚が、リアルの感覚に近い。実際は文字で読んでいるだけだが、モニターの向こうには確かに今、「あの人」が、なにやらもぞもぞと動いている。

今までブログを掛けなかったのは、誰に書いているかわからなかったからだ。それがツイッターだと、この先には知人の誰それが、リアルタイムに居ることがわかる。そのことで、ネットが空虚なバーチャル空間ではなく、実際の空間のように感じられたのである。

知り合いに囲まれた大部屋で仕事をしている。だが部屋はやたらとガラス張りでドアも広く、誰でも勝手に入ってきて、話を聞いたり答えたりできる。そういう公共の場所。オープンスペース。近い場所としたら、図書館だろうか、ホテルのロビーだろうか。仲間内で会話ををしていながら、近くを通った人も話に加わってこられるよう、わざと音を漏らしている。そんな絵柄だ。

こういうイメージを持つことが、私にとっては重要だ。もしネットに文章を公開することを、公共の場所で会話をしているつもりでやれば、ルールもマナーもわかっているから、ずいぶんとやりやすくなる。

やはり、理屈で考えて頑張るより、感覚的に理解した方が早い。ツイッターなら、しっかりした文章を書こうなんて野望を脇に置いて、ネットの向こうに人の気配を感じながら、書くことができそうだ。